終わりよければすべてよし

ひとり親卒業日記

もうひとつの結婚記念日

あれは、忘れたくても決して忘れることはない、今から29年前の出来事だ。

 

「花嫁さん、もっと笑ってください。」

カメラマンが言う。

「僕と結婚するのが嬉しくないの?」

当時、私の横にいた人が言う。

笑顔というのはきっと、心の底から自然と湧き出るものだ。どんなに作り笑いをしようと、プロのカメラマンにはわかってしまうものなのかもしれない。

 

あの日、私はいったいどんな覚悟を持って式に臨んだのか。思うに誰しも、これからチャペルで永遠の誓いをしようとするときに、「きっといつかは、離婚するだろうな。」などとは夢にも思わずに式に出るはずだ。もちろん、自分もそうだった。心のどこかで、何もかも白紙にできたら。どんなに本音ではそう叫んでいても、なかなか結婚式をドタキャンできる勇気のある人ばかりではないだろう。

 

今、振り返ると、すぐに赤ちゃんを望むことだけは否定した。それは相手の心を傷つけたけれど、やはりそれだけは死守して本当に良かったと思う。私の性格上、子供を抱えての離婚は決してできなかったろうと思うのだ。

 

当時の私は、離婚がまるで犯罪かのような感覚でいて、こっそり「バツイチの女たち」みたいなタイトルの本を数冊買いながらも、実際に決心することは容易にできずにいた。あの頃は、毎日相方と喧嘩をし、日中会社にフルタイムで出勤する時間だけが、唯一オアシスのようだった。涙で目を腫らし、午前中半日有給休暇を取りながら、会社近くのカフェで、一生懸命泣き止むのに時間を潰した日さえあった。

 

のちに知ったが、家庭で支配や虐待を受けて育った人は、成人して異性と交際したときに、相手がおかしな行動や言動をしても、おかしいことに気づかなかったり、あるいは気づいたとしてもひたすら我慢してしまう傾向にあるという。今振り返ると、まさに自分がそうだったと思う。

「これからの自分の人生の使命は、いかに自分の母親を幸せにしてあげられるか。これに尽きるから、そのことはあなたもよく覚えておいて。」

50代後半に夫をがんで亡くした姑とその息子は、まるで一卵性親子のような絆で結ばれていたのだ。

果たして、3人での暮らしは惨憺たるものであった。わずか8か月の同居だったが、私には限界を超える長い長い年月に思えた。

 

これらの経験は、お見合いで知り合った亡き主人はもちろん知っている。だが、子供たちには一生秘密にするつもりでいた。それは、前の相方に最後まで入籍をしてもらえなかったからだ。

 

しかし、ひょんなきっかけから、娘に話し、次男にも話し、最後は長男にも伝えた。子供たちの反応はそれぞれだったが、さすが今どきの子というべきか、こちらが予想したほど、驚くような反応はなかった。唯一、次男は言った。

「パパがその事実を承知の上でお母さんと結婚したのがすごいよ。」

 

そう、夫も夫の両親も、普通に受け入れてくれた。念のためにと、初顔合わせのときに父が、

「一度失敗してますが。」と言う。

「それについては、まったく気にしてませんから。」

即答したのだ。夫は。やはり、正直嬉しかったし、本当にありがたかった。

 

そのとき私は思った。いや、逆の立場だったら、こんなふうにすっきりと割り切れるだろうか。まだ自分は若く、結婚に困ってもいない年齢なのに、と。

 

ひとを、過去の経歴などで判断しない。

 

本当はまっとうなことであるが、なかなか若いうちから、そのように考えるのも難しいことだろう。いかに、ご両親が温かくまっすぐに、三人の子供たちを育ててきたかに尽きると思う。

 

もうすぐ母の日だ。

 

今年は白のアジサイを義母にプレゼントする。心から喜んでくださることに、改めてありがたいと、私の方こそ感謝の気持ちでいっぱいだ。夫のような素晴らしい人を、産み育ててくれてありがとう!!

 

 

たまには次男について書いてみよう

今のカテゴリーに所属していてどうしようかと思うのは、そもそも私自身が親として次男を東大に入学させるべくエリート教育をしたわけでもない。また、息子自身も幼い頃からガツガツと勉強ばかりをしていたわけでもない、からだろうか。あまり、参考になるような話しも特にはないのだ。それでもあえて、次男について振り返ってみるなら。

 

幼稚園の頃、お絵描き帳に好きに絵を描く時間があった。普通なら絵を描くところ、次男はノートにただただ、びっしりとクレヨンで数字を書いていた。実際、絵はあまり得意ではなかったようで、夏の季節に「海に行った思い出」として、海を描いたことがあった。先生が、どうして人は描かれてないの?と聞くと、溺れているからと答えたそうだ。本人はただ、人を描くのが面倒だったようだ。

 

年中さんで通い始めた珠算学校。先生がそろばんのはじき方を教えても、本人は先に暗算で答えを出して、辻褄が合うように答えをそろばんに置く。そのやり方はだめだと何度注意されてもやめない。手先があまり器用でないため、珠を細かく正確に弾くのが苦手だったようだ。普通は暗算するにも、頭の中にそろばんを置くか、空中でそろばんを弾くものだが、彼の場合はすべて頭の中だけで計算する。もちろんそういうやり方では限界があるから、姉は暗算二段まで取れたが、次男は暗算初段で終わった。

 

小学校時代は野球にハマり、少年団でハードな練習をこなしながら、いつの間にか甲子園やプロ野球の試合を見ながら、結果を予測するようになった。解説とほぼ同じことを、解説者が語る前に言うようになった。少年団を辞めたあとは、もっぱら野球やオリンピックのゲームにハマっていた。本気で勉強を始めたのは、小6の夏。いま思うと短期間の受験勉強でも勝算はあったのか。とにかく夢中になって、ゲームよりも面白いと言いながらほとんどの時間を勉強に当てていた。中学受験の経験のない私は、すべて本人に任せていた。確か、合格最低点の少し上くらいで合格したと思う。過去問については、一切やった記憶はないという。

 

中学に入ると、ちょうど勉強の面白さに気づいたばかりということで、とても張り切っていた。初めて受けた中間テストでは、学年で20番以内。意外と上の方なんだなと私は少し驚いた。だが本人は、この頃から絶対に一位を取りたいと強く願望するようになる。そして、中高6年間塾も家庭教師も通信講座もやらなかった彼にとっては、唯一張り切る場所が定期試験だった。いま思うと、毎回の定期試験だけは、常に本気モードで2週間前くらいから準備していた。しかし、授業はというと、眠りの○○と言われるほど、よく寝ていたらしい。何も言わずに休ませてくれる先生の授業は寝て、怒る先生の授業は起きていた。寝ていた授業は、テスト前に友達からノートを借り、代わりに数学を教えていた。よくまとめられたノートは、下手な授業よりもよほど頭に入る、などと言いながら。

 

模試については最初から良かったわけではない。高2のときの模試は東大C判定。高3に上がってから常にA判定を取るようになった。当時の本人は、「よくA判定でも落ちるひとがいると言うのは、Bに近いAのひとだよ。」などと言い、自分の実力と実際の入試において、乖離があるなどとは想像もしていなかったに違いない。

 

本番の入試については、本人の自己採点よりはかなり低い結果となったよう。やはり、高校の補講だけでは、予備校や塾のようにリアルな情報を得にくい状況だったのではないか。

 

東大以外受験していないので、必然的に浪人生となる。彼にとっては予想していなかった展開で、しばらくの間はやる気をなくし、全国模試で一位を取ろうと少しも嬉しそうではなかった。夏頃からは再びやる気を出したように見えたが、一番心配したのは本番が近づいてきた初冬の頃。心因性のストレスから不定愁訴のような症状が出始め、無事に本番をこなせるのか心配になった。現役のときの、のんきな状態のときに合格していれば、とさえ感じた。しかし、入試には適度な緊張感も必要なわけで、あまりにも余裕で臨んでもよくないのかもしれない。

 

合格できたときは、奇跡ではないかと思った。実力は十分だとしても、どう採点されるのかはまったくわからないからだ。

 

これから、オンライン中心の授業の中、どんな未来を目指して精進して行くのかはわからない。ただ、部活動を継続できなかった中高一貫校時代に比べて、アウトドア系のサークル活動において、さまざまな形で勉強になっているのはとても良かったと思う。

 

最後にまとめるとしたら、次男の場合、勉強法は自分で確立する。数学は公式を丸暗記することは間違いだと信じ、公式の成り立ちから理解をして、長時間考えても解けない場合以外は先生に聞いたりせずに自力で解く。地歴については、徹底的に教科書を重視する。英語はどうしたのか、よくわからない。

 

 

 

ここ数日の出来事

だんだん、この「大学受験終了組」というカテゴリーにいるのもおこがましいくらい、最近はつれづれなる毎日を綴るくらいしか、書くことも思いつかない。

 

本来なら、せっかく息子が東京大学に入学したのだから、何か親として書いてもいいのだろう。しかし不思議なもので、もちろん自分自身が合格できるはずもないのだが、我が子がいざ東大に入学してみると、たとえ天下の東京大学でも、よくよく考えてみたら日本国内にあるひとつの大学にすぎないように思える。極端に言えば、中学校のみを卒業していても、高卒でも専門学校卒でも、日本、あるいは海外の大学を卒業していようと、その先にどんな未来が待っているかは、人生をまっとうするまでは誰にもわからない。大学生のときに一生懸命勉強に励む者もいれば、学生時代はひとのノートを借りて要領よく単位を取得していたような人が、一流企業で40代から執行役員になっていたりもする。だが、たとえ昇進していようと、経済的に苦しい立場に追い込まれていようと、その人が果たして幸せかどうかは、また別の問題だ。

 

私自身は、ひとから「恵まれている」という言い方をされるのが幼い頃から嫌いだった。恵まれているという表現は、要は経済的にという意味であるが、果たして世の中の比較的裕福なひとが、毎日幸せで幸せで仕方ないと感じながら生活をしているだろうか。たとえば、以前お世話になったカナダ人の先生はこう言った。カナダ人は生きるために必要な分は働いているけど、仕事に命をかけて働くことはしないよ。金曜日は午後も早いうちから、週末に向けて早々に自宅に帰り、家族と過ごす時間を何よりも大切にする、と。おそらく、日本人ほどお金を稼ぐことに重きを置く人種は他にいるのだろうか。

 

先日、私が歯茎の腫れで出血したことはブログにも書いたが、あとで父が立ち寄り事情を話すとこう言った。

「血なんて吐いたってどうということはない。」

これが、例えば私から父に、

「がんなんて患ったところでどうということはない。」

などと発言したらどうなるだろうか。

 

実際、前立腺がんと腎臓がんにかかっている父は、私などよりもはるかに元気で、自転車に乗ったり、自彊術や習字を習ったり、母の代わりにスーパーの買い出しに行ったりと、具合の悪いところを目にしたことがないのだ。

 

手術や抗がん剤治療をしないと、こんなにも元気でいられるものなのか。

 

来月にはいよいよ、まずは父がコロナワクチンを2回接種する。インターネットのよくわからない父に代わり、私がスマホから予約をしてあげた。母の方は、開始5分で締め切りとなったため、また次回ということになる。

 

とまあ、とりとめのないことを綴り、せっかく訪問くださった方にも申し訳ない。

 

最後にせめて次男の近況報告でも少ししておこう。

 

一年生の大学での成績は、85点から90点未満くらい。これはおよそ学内でも上位10〜15%以内らしい。東大でよくある、シケプリ(試験対策のためのプリント)担当になった数学の科目は、本人はすべて予習で理解してしまったために、小テストしか受けていない。授業を聞かずに対策プリントを作成するのも面倒なため、質問があれば何でも聞いてくださいとしたらしい。そして数名からの質問対応で済んだようだ。その科目は定期試験はわりと難しかったようだが、相対評価のために「優上」を取れた。難しいが頑張ったフランス語もすべて優上(一般の大学でいうAA)を取れて終わった。

 

今はサークルの新歓活動でいろいろと忙しいらしく、先日久しぶりにアパートを訪れたときはすごい状態だった。お料理だけはがんばっているようだが、それ以外の荒れた様子をみて、やはりひとり暮らし経験も一年間で十分かと感じた。

 

いつ、以前のように全面対面授業となる日が訪れるのかはまったく予想できないが、本郷キャンパスの方がまだ自宅からは通いやすい。さすがに出費もかさんできたので、今年の夏休み中には完全に帰省してもらい、忘れないうちに車の運転練習に励んでもらおうと思う。

 

今朝は珍しく、誰もいない2階の窓をすべて開けて換気し、庭の草取りも頑張れた。換気は空気の入れ替えのためにするものだと思っていたが、実は家の中に良い気を入れるのに必要らしい。それも、なるべく午前中の方が良いそうだ。そのおかげか、今日は珍しく雨が降る前でも調子悪くはならずに済んだ。

 

前回はせっかく予約した鍼灸院を、めまいがひどくなりキャンセルした。次回行けるのは、緊急事態宣言明けになるか。

 

それまで、悪い気を吸う働きもあると聞いたサボテンを初めて購入しようかと思う。植物にはまったく詳しくないので、どなたかもしおすすめなどがあれば、ぜひ教えてください。よろしくお願いします!

 

 

 

 

長い一日

たとえ、前の晩に早くは寝つけなかったとしても、たいてい朝はわりと早く目が覚める。以前のように二度寝することはあまりない。

 

目覚めてから、その日のゴミ出しをするまでの時間、目に悪いと知りながらも私は、ここ最近よくスマホで無料漫画を読みふける。あまりに面白いと、ついつい課金してまで読むこともある。

 

本来なら小説などを読むのが好きだが、最近はなかなかせっかく買っても読み始めることができずにいる。

 

小説は、漫画と違い、絵の描写がない分想像力を膨らませることができる。 

 

それに比べて、漫画の場合はそれぞれの役柄になりきってセリフのように読み上げることもある。

 

そしてようやくゴミ出しを済ませると、朝ごはんだ。それにしてもひとりでいただく食事は味気なく感じるためか、少量しか入らない。次男が帰省していた時期に比べ、3キロほど体重も落ちたようだ。

 

以前ならここですぐに洗濯や洗い物に取りかかるところ、食後の歯磨きすら、ひと休みをしないとやる気が起きない。

 

そうこうするうちに、昼ごはんの時間も遅くなりがちだ。

 

ああ、いったい自分は何をやっているのだろう。昔から人前だと張り切れたことを思うと、見るひとがいないと、とことんだらけるということか。

 

ぼーっとできる時間や、テレビを見る暇もなかった時期は、いったいどこに行ってしまったのだろうか。

 

来週あたりから、自律神経に効果のある鍼灸治療などを始めたいと考えているので、それが少しでも良い方向に向かえばと願う。

 

それにしても、ひとり暮らしでもそれなりに快適に過ごすには、外との繋がりは欠かせないと思う。それを持ちにくい環境下では、やはり誰か家族と一緒に暮らす方がはるかに健康的だ。

 

今のところは、次男の通うキャンパスが変わったら、自宅から通ってもらいたいと考えている。それまであと約10か月。精一杯自分の体調を改善することに神経を注ごうと思う。

 

今朝驚いた出来事

最近、ありがたいことに睡眠薬を使わなくても朝まで熟睡できている。

 

ゆうべもそうだった。

ただ、今朝方は5:20くらいと、いつもよりは早く目が覚めた。

目覚めた瞬間、口の中に何か痰らしき変なものが混じっているのを感じた。

とりあえずはお手洗いを済ませ、洗面所に向かう。そして口の中のものを吐き出してみると、びっくりした。それは痰などではなかった。どす黒い色が混じったような色の、血の塊だったのだ。

 

え? と思い、うがいをしてみると、あとからあとから、真っ赤な血が水と混ざりあって出てくる。てっきりそれは、身体の中、つまりどこかの内臓から出ているものかと思った。

 

どうしよう。娘の来年の挙式会場や日程が決まったばかりだというのに、まさか私は、何か大きな病気にでもかかっているの? とっさにそう感じ、今すぐ救急車を呼ぶべき状態なのかどうか、本当に焦った。幸いひどいパニック状態に陥ることはなく、朝は早かったが、とりあえずは家族に電話をしてみる。

 

順番はよく覚えていない。長男、次男、父、実家の固定電話、24時間営業中とあるかかりつけの総合病院。何回かかけても誰も出てくれず、ようやく繋がったのは娘だった。

「お母さん、今血を吐いちゃったの。まだ止まらない。悪いけど、こっちに来られる?」

起きたばかりの娘が、

「ん? 大丈夫? 今日は仕事が休みだから今からそっちに行くよ。」

 

とりあえずは急いでこちらに娘が駆けつけてくれることになり、まずはホッとした。

 

そしてそのうち、うがいをしながら血を吐き出していくうち、右奥歯の歯茎が異様に腫れ上がっているのがわかる。もしかして、ここから出血しているのか? やがて何度もうがいをしていくうちに、ようやく出血も止まった。ただ、ぶよぶよした感じは残っていたが、最終的にはそれも舌で自然に取れ、吐き出してみると、レバーをミンチ状にしたような小さな血の塊。それからまたうがいをして、歯茎を舌で触ってみると、ようやく何もなくなっているのを感じた。それ以来は、まったく出血はしていない。

 

夫が突然白血病と宣告されて入院する日の前夜、2階の洗面所で夜中に嘔吐する様子があった。私はあえて2階には上がらなかったが、とても心配になり、翌朝は早起きした。

「パパ、今日はどこか違う病院に行ってみる?」

そしていったん夫は会社に顔を出し、それからすぐに病院に向かった。私はゴミ出しをしてから同じ会社に行こうとした。すると、真っ赤な血のついたマスクを発見。え、まさかゆうべ吐いていたのは血? 2階の洗面所を見ると、少し血の跡があった。

 

大急ぎで会社に行き、必要最低限の業務を済ませて、夫がいる病院に向かった。

「パパ、もしかして吐血した?」

うなずく夫に、「いつから?」

「一昨日から。」と答える夫に、

「え、どうしてすぐに言ってくれなかったの?」 

夫はただただ、悲しそうな表情を向けるだけだった。

 

そんな経緯の記憶もあるから、恐らく余計に焦ったのだと思う。数日前にかなり久しぶりに歯医者に行ったが、虫歯はなく歯周病の治療をしていきましょうと言われ、歯石を取るなどのクリーニングをしたばかりだ。かつて、治療後にこのようなことが起きたことはない。

 

止血したあとは、久しぶりにひどいめまいに襲われ、めまい用の薬を飲み床につく。娘も自宅に到着し、まずは一緒に朝ごはんを食べる。そのあとは二人とも眠くなり、お昼すぎまで眠ってしまう。

 

それから、次男の授業の予定を確認し、今晩だけは自宅に戻り泊まってもらうことにした。夕飯は二人で、鶏そぼろ丼やお味噌汁を作ってもらう。最後に、お姉ちゃんが弟に、得意のだし巻き卵の作り方を丁寧に教える。なんでも、3回に分けて卵を銅製の卵焼き器に流すとき、純粋に1/3ずつではなく、5、4、3という感じで量を減らして行くと、最後がうまく巻きやすいそうだ。私はフライ返しを使わないとうまく巻けないが、娘は器用に菜箸だけでくるくると巻いて行く。高校生のときにお弁当用にと、入試当日にいたるまで毎朝焼き続けただし巻き卵は、ふわふわで本当に美味しい。

 

多めに作った鶏そぼろと卵焼きを数切れ、旦那さまに持ち帰る。今日は彼まで私のことを心配してくれ、改めて優しい人なんだなあと感じた。

 

また、長男も仕事が終わってすぐに電話をくれ、「どうかした?」と聞いてくれて事情を話す。すると、私のことをとても心配してくれた。

 

また近いうちに歯医者に行くので、よくよく診てもらおうと思う。

 

今日は子供たちのありがたみを感じた、ある意味とても幸せな一日となった。

 

 

再びの孤独感

春休みまるまる2か月間、ほとんど毎日のように教習所に通い、次男は無事に自動車運転免許を取得した。そして再び大学近くのアパートへと戻って行った。

 

この春休み、振り返ると本当に楽しかった。受験の心配もいらない、きょうだい喧嘩の心配もいらない、こんな穏やかな長期休暇がかつてあっただろうか。

 

そして今わたしは、再びひとりの生活へと戻った。そのギャップは激しく、なんだか昨年の秋に初めてひとり暮らしが始まった頃以上に、元気もやる気も食欲も出ない。これで何か仕事でもこなせればいいのだが、今のご時世、マスクが不要な仕事なんてないだろう。在宅でできるような仕事でさえ、最初の1週間だけは都内でマスクをつけながら研修を受ける必要があるという。パニック障害を持っていない人も長時間マスクをつけるのは苦しいという。しかし、こちらはマスクのために、せっかく元気でいられた身体が倒れるかどうかの瀬戸際に追い込まれ、下手をすると電車を止めたり、救急搬送されかねない有様なのだ。

 

そんな中、現在は娘が来年挙げる予定の結婚式場を検討中だ。なんでも、昨年本来なら挙式予定だったカップルが、来年に延期しようというケースが多いらしく、例年では珍しいほど、来年の土日祝がほとんど予約で埋まりかけている状態だそうだ。どうも仮予約というのはできないところが多く、ブライダルフェア、または個別相談に行った当日中に成約をすれば、延期や人数の変更は自由にでき、また数十万ものお勉強をしてくださるという。ただし、あくまでその特典は当日限定。

 

先日は娘の休みである平日に、私と一緒に試食つき個別相談にとある式場を訪れた。そこは、私が若い頃に友人やいとこにお呼ばれした中で、一番印象に残った式場だった。

 

あくまで試しに行ってみるつもりだったが、思いの他、こだわり屋の娘が気に入ってくれた。娘の場合、私などはあまり気がつかない点もくまなく観察する。たとえば、シャンデリアの豪華さ、絨緞の柄、チャペルの雰囲気。食事に関しては、どこもそんなにまずいところはない、ある程度は美味しくて当たり前という感覚らしい。しかし、試食にいただいたワンプレートとデザートは、想像を超える美味しさと意外性があり、好評だった。

 

その日は仕事のため、彼の方は同席していない。よく、細かいことは彼女の方に任せるという新郎も多いだろう。そんな中、コーディネーターさんに聞かれて娘は答えた。

「私よりもっとストライクゾーンは厳しいかな。」

そう、娘も何かとこだわりが強い方だが、相方はさらにこだわりがある人なのだ。まず、玄関に入ったときの第一印象で、どうかが決まるらしい。

 

というわけで、また別の日に彼ひとりで訪問してもらい、彼が納得すれば、私も娘も良いと思った場所なので、その場で成約することになった。今どきはどこも、内金は20万円だ。

 

来年の挙式日や場所が決まれば、とりあえずはホッとできる。

 

子供たちがそれぞれに巣立ち、自立して行くのは、本来は頼もしいことだ。しかし、人間というのはないものねだりをする生きもののようだ。夫亡きあと、あれほど欲しいと思った、ひとりで過ごせる自由な時間。今は山のようにあるというのに、いっこうに気は晴れない。

 

本当に気がふさいでしまうと、誰かと話そうとか、こうやって何か書こうとすら、する気になれなくなる。

 

若い頃の自分とは、まるで人格が変わったかのようだ。ひとりで海外を旅し、ひとりでシェイクスピアの芝居を観に行き、満員電車の中往復2時間40分もの通勤をこなし、英語でのミュージカルやお芝居の舞台にすら立てた自分。

 

そんな、どんな環境にでも馴染める日々が、再び訪れることは果たしてあるのだろうか。

 

それはまだ、今は誰にもわからない。

 

 

 

 

娘の結婚

今、感無量です。

 

ついに、愛娘が入籍しました!!

 

パパが生きていたら、なんと思ったんだろう。

 

パパが亡くなって最初の数年。

まだまだ先の話なのに、中学生にすらまだなっていないのにもかかわらず、何度も何度も頭の中で反芻してはむせび泣いたことがあった。

 

それは、、、

結婚式、どうするの?

だった。

 

よくある両親への花束贈呈。

これ、私の隣りに本来ならいるはずの夫がいないなんて。

 

耐えられない。

その日を迎えるまでには、逃げ出そう。

 

いや、両親ともいなかったら、挙式はどうなる?

せめて子供たち全員が無事に結婚するまでは、生きていないと。

 

そんなことを、本気で葛藤する日々だった。

 

そしていつの間にか、部活動や少年団の応援やお手伝いに追われ、何年もほぼ連続であった、三人の子供たち誰かの受験のサポートに明け暮れる日々。

 

昨年の春、末っ子の東京大学合格でようやく子育てに一区切りがついたというのに、世の中はコロナ。私はパニック障害でマスクを長時間つけられず。秘かに夢見たニ度目の海外留学も叶わず。

 

それでも、娘の結婚は、何よりもめでたい。

 

ありがとう。しっかりと自分で、一番ふさわしいひとを見つけてくれて。

 

お母さんは、娘の自由意思による選択眼を心から信頼しています。

 

自分で産み育てた子を信頼し、誇りに思えないなんて、愚かだよね。なぜってそれは、結局は自分のこれまでの全人生を否定しているようなものだから。

 

少なくとも、私はそう思う。

 

苗字は変わっても、これからもずっと、お母さんはあなたの味方だよ。

 

頑張れ! ワーキングワイフ。

 

Happy Wedding !!

 

二人で末永く、幸多からんことを。

 

2021年 春