終わりよければすべてよし

ひとり親卒業日記

イギリスの大学で日本文学を学ぶ

私が留学をしていたイギリスの大学は、専攻こそ決めるものの、どの授業を選んでも良いことになっていた。特に必修科目というものはない。ただ、確か週に4つまでしか、履修はできないシステムだった。4つというと、日本の大学に比べても、ひじょうに少なく、楽に思われるかもしれない。だが、イギリスの大学の授業というのは、例えれば、日本の大学でいうわりと厳しめのゼミのようなものだ。つまり、ひとつの授業に対して準備することや課題が多い。まず、私の場合は文学を専攻したため、授業の前までに読むことになっている本の数が多い。実は私は、日本語の本でも読むのが普通より遅く、ましてや、英語の本を速読できるわけではなかった。

 

実際、授業の始まる前までに、完璧に読み終えることはなかなかできなかった。

 

そんな中、唯一はかどったのは、現地のマスターコース(大学院のようなもの)の学生と一緒に学んだ、日本文学。先生は日本人女性で、イギリスの貴族と結婚し、のちに離婚はするが、貴族の称号はそのまま持っていた方だった。イギリス人は、普通の先生に対しては、ファーストネームだけで気軽に呼ぶ。ところが、私がその日本人の先生に対して、〇〇子先生と呼ぶと、なぜ「Lady 〇〇」と呼ばないのかと、現地の学生に怪訝そうに指摘された。イギリスは階級社会とは聞いていたが、呼び方からして違うことを思い知らされた。

 

その授業では、有吉佐和子の小説を主に取り扱った。英訳本が数多く出版されていることに驚いたが、私は、日本にいる両親にお願いをし、日本語版を取り寄せた。さすがに日本語なら、事前にしっかりと読み終わる。そして、先生の英語は、16年も住んでいてたいへん流暢なのだが、発音だけは、完全にジャパニーズイングリッシュだった。私にとっては聞き取りやすいが、イギリス人にはどうなのか、と思っていたら、意外な感想を聞いた。「Lady  〇〇は発音が美しいとは言えないけど、きちんと意味は通じるし、全然いいの。それよりも、日本人男性の△△先生。完璧なアメリカンイングリッシュで、聞いていて嫌になるわ。日本人なのに、アメリカ英語を話すなんて。イギリス人は、アメリカ英語をヤンキーズイングリッシュと思っていて、正統派のイングリッシュとは認めていないの。なのに、どうして日本の英語教育はアメリカ英語に傾いているのかしら。」

 

確かに、大学が始まる前に、イギリスのストラットフォードアポンエイボンシェイクスピアの生誕地)にある語学学校で勉強したときも、色という単語を、colorと書いたら、☓をつけられ、colour と訂正させられたっけ。アメリカ英語を流暢に発音するよりも、ジャパニーズイングリッシュの方がいいと思われるなんて、本当に意外だった。

 

その授業で一番印象に残っているのは、「華岡青洲の妻」という作品。世界で初めて、麻酔薬を開発した日本人医師、華岡青洲の実話をもとにした小説だ。授業では、小説の内容について活発に意見交換がなされるのだが、イギリス人学生はみな、主人公である、医師の妻がひじょうに弱い女性だと感じている。それに反して、私や先生は、自分の命を賭けてでも、夫の研究に尽力した妻は、本当に強い女性だという印象を持った。その感想が正反対だったのが、特に印象的だった。

 

授業が終わると、学内のカフェでよくみんなで紅茶を飲んだ。ある日本人の友達が、こちらのひとは去り際がうまいよね、と言っていた。確かに、最初は6〜7人でお茶をしているのだが、日本のように一斉に席を立つのではなく、ひとりひとり、それじゃあ私はこれで、とさり気なく席を立っていく。私はそろそろ失礼しようと思っても、どのタイミングで席を外したらよいかわからない。あるとき、自分もこれで、と席を立ったら、僕が話をしている最中に席を離れるなんてあなたはとても失礼だと、注意されてしまったことがある。カフェを出て、ちょっと私が落ち込んでいると、Japanese society(日本文化を研究するサークル)の仲間のイギリス人に出くわして、事情を聞いてもらった。すると、ああ、それはただ単にそのひとが君のことをからかって文句を言うふりをしただけだよ。本当には怒ってない。君は特に、何も失礼なことはしてないよ、と励ましてくれた。

 

あらやだ、そんなジョークまで理解できないんですけど、と思ったっけ。実際、彼はちょっとsnobbish なところがあるから、あまり気にしない方がいいよ、とも言ってくれた。

 

そのときの先生は、のちに日本に帰国して大学教授をされていたが、現在は退職されているようだ。機会があれば、お会いしてみたいが、もうさすがに私のことは覚えていないだろう。