終わりよければすべてよし

ひとり親卒業日記

「逃げたい」という感情

ひとはそもそも、どんなときに「逃げたい」という気持ちに陥るのだろうか。

 

数年前、ひとりで用事があり電車に乗ると、よくこんなことを思った。

「ああ、このまま当てもなく行けるところまで電車に乗り、どこかに行ってしまいたいなあ。」と。

 

自分の置かれた立場から、現実には逃げられるはずもないのに、ふっと普段の日常で疲れたとき、「逃避行」というイメージが湧いたものだ。

 

思えば、ひとり親になってからの長い歳月、現実的に誰かが私の負担を率先して減らしてくれたという記憶が本当に少ない。私自身はもともと、ひとから何かを頼まれると断りづらく、たいてい引き受けてしまう。そして、自分自身が辛く、明らかに誰かの助けを必要とするとき、自らSOSを発信したり、ヘルプを求めたりすることが容易にはできない。

 

こんな性格の場合、周りが自ら気づいて、極力余計な用事を私に頼まないようにするか、またはこちらが何も言わずとも、生前の夫のように自ら率先してあれこれと嫌な顔ひとつせずに助けてくれるか。そんな素晴らしい環境に恵まれていたら、ここまで私の調子も崩れることはなかったかもしれない。

 

きっと今でも、バリバリ働き、家事も完璧にこなし、日中は疲れ知らずで夜中はぐっすり熟睡できていたことだろう。

 

考えてみると、神様は乗り越えられない試練は与えないというが、なにゆえ私にこのような試練を与えたのだろうか。

 

そして、残る余生で、それをどう昇華させて行けばよいのだろうか。

 

今の私は、完全にひとりになった方が意外と人間関係によるストレスが少なくて体調もむしろ良くなるのか、あるいは逆に昔のように大人数で暮らした方がいろいろなひとと関われて楽しいのか、実際に試すでもない限り、わからない。

 

コロナで世界が変わるような状況でさえなければ、そしてパニック障害も完治していたなら、世界中にいる古い友人たちを、もしかしたら実際に会うのは最後かもしれないと思いながら、訪ね歩いてみたかった。

 

そんなささやかな夢すら、この先叶えられる日が来るのかもわからない。

 

せめていつか自分が還暦を迎える頃には、今とはまったく違う自分になっていたいと願う。