終わりよければすべてよし

ひとり親卒業日記

かなり久しぶりの更新

今年の夏は、特に暑かった。そんな中、更年期障害によるホットフラッシュとの闘いは、壮絶なものだった。ちょうど、ホットフラッシュが始まってから、約1年が経つ。最初の1年目が一番きついという話も聞く。婦人科の医師からは、一般的に長くても、閉経後5年で終わりますから、と言われた。ということは、あと約2年の辛抱だ。いやあ、正直、更年期障害がこれほど辛いものとは思わなかった。女性は実にたいへんだなあと痛感する。

 

身体的症状だけでなく、精神科な症状もある。たとえば、なぜか夕方以降になると、特に理由もなくても、涙もろくなったり、ときには号泣したりすることもある。最近、発見したことだが、夕方は、特に体調が悪くない限り、ヘルパーさんと共にお出かけをして、気分転換を計ると、おかしな精神科的症状から解放されるようだ。散歩したり、自らハンドルを握ってドライブしたり、買い物に出かけたり、お茶をしたり、などだ。

 

今、以前あれほど仲の良かったフユとの関係がぎくしゃくしている。思えば、ハルとは高校時代、ナツとは大学時代、やはり関係が最悪だった時期がある。「僕、今反抗期だから。」と、大学4年になり聞く言葉とは、自分が若いときは、ありえなかった。でも、反抗期は成長のために必要だという。

 

先日、脳神経外科に検診に行ったときは、おおむね良好と言われ、再発とは言われずに済み、心から安堵した。ただ、正確な診断は、あくまで、カテーテル検査一泊入院で、より細かい検査をする必要がある。それは、来春の東大の卒業式が無事に済んでからやりたいと思う。院長先生も了承してくれた。だいたい、今年の春にした手術から約1年が経つ頃だ。

 

こうして、一生検診を続けると思うと、つくづくたいへんな病にかかってしまったものだと思う。が、それもみな、私の運命なのだろう。

 

肉体的な麻痺がないと、普通の身体に見えてしまう。ただ、今、一番参っているのは、更年期障害の方だ。これは、いつか必ず終わりが来ると思えば、まだ救いがある。

 

最近、家族よりも、友達やヘルパーさんの方が、よほど私の身体を気遣ってくれる。ありがたいと同時に、皮肉なものだとも感じる。

 

さあ、そろそろ床につくとしよう。

皆さま、おやすみなさい。

 

今日は私の誕生日

なかなか、更年期障害に苦しめられ、更新ができずにいた。

 

本日、私は、57歳になる。

先日、めまいの治療で日曜日に病院を訪れたとき、たまたま、担当医が脳外科医だった。その方にこう言われた。

「今まで30年以上この仕事に携わってきたけど、くも膜下出血で心肺停止にまでなり、生還したひとは、ひとりもいない。自治医大にひとりだけいたけど、その人は、一生の後遺症が残った。あなたのような人は、まさに奇跡だよ。」と。

 

そうか。そうなのか。

 

ならば、もっとすべてに感謝をしなければならないな。

 

精神的後遺症や、3度ものカテーテル手術、更年期障害で、日々耐え難い思いをしていると、あのとき自分は助かって本当に良かったのだろうかという疑問が嫌でも湧いてくる。

 

やはり、病気というものは、本当に人の心を弱くさせる。

 

それでも、頑張って、決して焦らず、少しずつ、回復していくしかないのだろう。

 

この前は、ロールキャベツまで作れたではないか。少しずつ、少しずつだ。

 

三人の子供たちに、それぞれ素晴らしい誕生日プレゼントをいただいた。インスタグラムに投稿したので、見られる方は良かったら見てください。

 

さあ、これからの1年も、頑張るぞ!

 

フユの就活

皆さま、かなりご無沙汰しております。

まだまだ完全回復とはいきませんが、私は生きております。

 

3月はじめのことだ。私は、なんと3回目の脳動脈瘤カテーテル手術をした。手術は無事に成功し、予定より少し早く退院となった。しかし、これが最後の手術とは限らないというお話は、聖路加病院の医師にも、現在かかっている脳神経外科病院の医師にも、同じように言われている。理由は、私の動脈瘤の形がいびつだからだそうだ。

 

気持ちが折れそうになる話は早々に切り上げて、フユの就活の話をしよう。

 

彼は経済学部金融学科の学部生。学部生、しかも文系から、内定をもらえるのは、かなり少数派だ。たいがいは、理系の院生から採用されることが多い。しかも、かなりの狭き門だ。

 

そう、実はフユは、とある生保の、アクチュアリーとして、内々定をいただけたのだ。他にも、アクチュアリーとして、二社から採用されたが、そちらは丁重にお断りをした。

 

アクチュアリーがどのような専門職かは、関心がある方は個々に調べてほしい。フユは、昨年初めて資格試験を受けて、2科目とも合格した。トータルで8年くらいは正式なアクチュアリー会員になるのには、かかるという。社会に出てからは、仕事と勉強の両立で忙しくはなるが、だいたい30歳くらいで年収が1千万くらいになるわりには、それほど残業が多くはない会社を選んだ。体力がそんなにはないから、いかにも彼らしい。また、人間関係も、インターンや説明会に参加して、自分に合いそうだと判断したようだ。

 

4年生に上がる前に、就活が終了して何よりだ。これからは、最終学年として、大学の勉強に精進するしかない。つい最近からは、小6の1年間だけ通った唯一の個人塾で、新たに、バイトも始めた。

 

個人的な趣味としては、麻雀も得意なようだ。オンラインでやったり、ときには雀荘にも行く。何でも、オリジナルで、麻雀のプログラミングも作り、面接でも話が盛り上がったそうだ。

 

フユと一緒に暮らすのも、あと1年。できるだけ、仲良く過ごしていきたい。

明日で倒れて1年目

明日、9/14が、自分の一周忌になどならずに済み、本当に良かったと思う。

 

正直、この一年ほど辛い年はなかった。精神的にも、肉体的にもだ。目に見える麻痺や後遺症はなくても、クモ膜下出血という病には、精神的後遺症というものがある。それがどういうものなのか、果たして自分がそれにかかっているのかも定かではない。もう少しで、病院の検診日だ。もしかしたら、医師に聞いても

明確な答えが返ってくるのかはわからない。

 

私の場合は、倒れたときの記憶が何もないのだが、もしかしたら、潜在意識の中にそれはきちんとあって、ちょっとした体調不良が起きても恐怖感にかられるのかもしれない。

 

服用している薬の副作用、もしかしたら更年期障害、担当医は違うと言うがパニック発作に似た症状の数々、幼い頃からのトラウマやPTSD、もう何がなんだかわけのわからない様々な症状に苦しめられてきた。一度は救急車を呼び、瞳孔が見開いていることを確認され、これはパニック発作と判断されたこともあった。救急隊員の方は親切に、私が落ち着くまで1時間近くも、そばにいて話をしてくれた。実際、パニックではなかなか受け入れてくれる病院は少ないそうだ。それは、抗不安薬を飲み、しばらく寄り添うと自然と落ち着いてくるからだ。そのときは、病気の前には問題のなかった薬を

服用した途端、様子が急変したのだった。

 

すでに、2回目のカテーテル手術から3か月が経つ。少しずつ、動いても疲れにくくなった反面、昼寝をしたあとのパニックに似た症状には悩まされている。昼寝をしなければ良いのだが、まだまだ身体が回復途上にあるためか、午後はどうしても眠気に襲われる。

 

一方で、午前中にかなり調子悪くなることもあるが、夏休み中の次男は、起きるのが遅いため、まるで頼れない。

 

今日は久しぶりに娘が来てくれた。はじめは、ひとしきり、嬉し泣きだ。やはり、女の子は違う。自然と寄り添ってくれるのだ。また、良いアドバイスもくれたりする。今日の一言は、生前、長男が交通事故にあったときに、パパが言ってくれた言葉だ。「今回はうちの子だけが重症となったけど、ひとの幸不幸は長い人生で押し並べてみれば、そうは変わらない。」

 

そうだ。今の私の身の上は、夫に先立たれた上に、クモ膜下出血という大病に見舞われた。しかし、今もこうやって、自宅で療養ができているのだ。話せる。歩ける。食べられる。物も二重には見えない。頭もしっかりしている。

 

これからの一年は、絶対により良いものにしたい。

 

最後に、皆さんにぜひおすすめのアニメを紹介します。私はネットフリックスで観ていますが、他の手段は知りません。

京都アニメーション制作の、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」。風景美はもちろん、不思議と手紙を書いて見たくなるようなお話です。機会があれば、皆さんもぜひ! 感動ものです。

 

フユの就活体験

久しぶりに、フユ、という呼び名を使おう。昔のブログをお読みの方は覚えているはず。

 

フユは現在、大学3年生だ。この夏休みは、たくさんのインターンに応募した。業界はある程度、特定されている。フユの目指しているのは、とある専門職だ。一般のインターンとは違い、専門職専用のインターンがある。はじめは会社で行なわれる予定だったものも、このコロナ禍で急遽オンラインに変更になった会社もある。

 

フユにとって、最近受けたインターンは、本当に素晴らしいものだったようだ。参加者は、ほとんどが旧帝大の理系の院生。フユのような文系の学部生は少数派だ。そんな中、よくインターンに通過できたと思う。しかも、グループに分かれて議論を交わす場面でも、立派について行けているらしい。そして、フユのグループは、議論が活発で褒められたらしい。一方で、精度を求めすぎて、時間内にまとめ終われなかった点はきちんと注意されたようだ。

 

フユの目指している専門職は、いわゆる応用数学を使うものだ。インターンにエントリーするときのWEBテストは、当然数学だったようだ。

 

こんなふうに、自らいつの間にか、自分の将来やりたい職種を見つけ、高いハードルにもかかわらず挑戦しようとする姿は、我が子ながら立派だと思う。

 

私が思わず、昔の自分自身の就活を振り返ると、ただ英語を活かせる仕事がしたい、というだけで、何もわかっていなかったと思う。それをフユに告げると、こんな答えがかえってきた。

 

「お母さん、そんな30年も前の就活を反省するよりもさあ。むしろ、息子のことを誇らしいと言ってよ。」

 

確かに。結局は、私自身も実際メーカーで海外営業部に配属され、毎日のように英語と向き合う約5年間があったからこそ、今なお、忘れないでいられるのだ。

 

先日、フユが初めて受けたTOEIC。当然かもしれないが、私の最高点を見事に超えた。私はリスニングは良いのだが、新形式に変わってリーディングが最後まで解く時間がない。

 

これで初めて、昨年春のフユと二人で行けた旅行のときのフユの気持ちがわかった。二人でテニスの試合をしたのだ。結果は私の勝利。こちらは、軟式テニス6年、体育会硬式テニス3年の経験がある。それでも、フユはいくら初心者とはいえ、50代のおばさんに負けるのは悔しかったらしい。試合のあとは、スマッシュの玉出しをしてあげたら、見事にすべて決めた。やはり、野球をやっていたので、玉感はあるのだろう。

 

9月にもいくつかインターンがある。最大手の会社も含まれる。なんとか社内で受けられることを願う。

 

中には専門職の採用枠を増やした会社もあるようだから、ただでさえ少数枠の採用に、見事に決まることを来年は願う。インターン経験者は、早期選考の対象にもなれるのだから。

もうすぐ奇跡の誕生日

今から1週間後はちょうど私の誕生日だ。とうとう56歳になる。夫がいた頃は、必ず私の誕生日を、子供たちと秘かに計画して、部屋の飾りつけをしてくれたり、お手紙を用意してくれたり、市内の美味しいケーキ屋さんでデコレーションケーキを用意してくれたりして、家族みんなで私のために「Happy Birthday」を歌ってくれた。それは私にとって、ごく当たり前の風景だった。ほんの15年前までは。夫から私への最後の誕生日プレゼントは、中島美嘉さんのコンサートのチケットと、長距離用の自転車だった。

 

夫亡きあと、自分の誕生日がひとつも嬉しい日ではなくなった。自分の誕生日のわずか5日後に迎える夫の誕生日。ほぼ一緒にお祝いをしていた習慣が消え去り、夫は永遠に43歳のままだ。

 

ところが、今年の誕生日は一味違う。私は、本来なら二度と迎えることができなかったかもしれない日なのだ。くも膜下出血の中でも、グレード4という重症度では、他に何も合併症がなかったからこそ、できた手術なのだ。破裂当日に手術ができない場合、ほとんどの確率で再破裂を起こし、そのときは最初のときより一層出血量が多く、ほぼ助からない。よって、再破裂を起こす前に、手術を成功させなければならないのだ。

 

今現在、私はありがたいことに、麻痺も後遺症も何もない。しかし、つい先程やってみた、ラジオ体操。ジャンプができないことに自分でも驚いた。まだ、2回目の手術から2か月も経っていないので無理はないかもしれないが、知らず知らずのうちに、きっと筋力もかなり低下しているに違いない。

 

もともと、運動自体は大好きだ。しかし、この猛暑の中では外を歩くことすら危険だ。家の中でやれることは限られている。一時は治まっていためまいも、最近は気圧の変動などで頻発している。体調の良い日は限られている。

 

それでも、退院後わずかながらやれた料理は、親子丼、牛丼、豚バラ炊き込みご飯、おにぎり、そんな程度だ。しかし、食べ慣れた自分の味はやはり、感動するくらい美味しい。

 

そろそろ目が疲れてきた。今宵はこのへんまでにしておこう。

 

いつまでもあると思うな親と金。

などという言い回しがあるが、

自分自身の命さえ、そうなのだ。

いつ何時、どんな形で突然失うこともありうる。

 

そう考えると、嬉しくないなんて、贅沢なことは言っていられない。

 

今年の誕生日を無事に迎えられることに、協力してくださった、家族、医療従事者、救急隊員の皆様、心より感謝申し上げます。

 

本当にありがとうございました。