終わりよければすべてよし

ひとり親卒業日記

ロンドンで観た「レ・ミゼラブル」

イギリスの大学に交換留学生として一年間通学していた当時、ロンドンを訪れたのは数回だけであった。

 

そこの大学はロンドンから100キロほど離れており、電車を使えば1時間で到着できる。一年もあれば、いつでも行きたいときに行けるだろう。そう考える留学生も多かったと思う。

 

私は大学で文学を専攻していて、とりわけシェイクスピアをはじめとするイギリスの演劇やミュージカルが好きだった。シェイクスピアの舞台は、ホームステイもしたシェイクスピアの生地ストラットフォードアポンエイボンでも、週末にはよく劇場に足を運んだ。また、ロンドンの有名なバービカンシアターも訪れた。しかし、ミュージカルだけは、なかなか観る機会がなく、結局たった一度だけ、それも当日にいわゆるダフ屋さんから購入したバカ高いチケットで、舞台からもっとも高く遠く離れた席で、下を覗き込むように観た記憶がある。この席で20ポンド(当時にして約5000円)かあと、ちょっとガッカリはしたが、視界は遠くても、俳優さんたちの高らかな歌声だけは、しっかりと響きわたり、さすがだと感激した覚えがある。

 

先日、たまたまオンラインで「民衆の歌」(日本語に訳された歌)を聴き、とても感激した。

 

そして、英語版の「The People's Song」の歌詞を探してみた。家の中で声に出して歌ってみる。ああ、なんだか意外と楽しい。やはり発声っていいものだな。いろいろと落ち着いたら、習い事にしてみてもいいかも、なんてね。

 

これでも、大学卒業前の記念にと、「赤毛のアン」の英語版ミュージカルに応募し、アンの親友ダイアナのお母さん役を演じた若き日の思い出があるのだ。あの頃はなんて、疲れ知らずだったのだろう。若さは本当に貴重だなと思う。

 

 

 

 

 

 

 

朝ドラ「エール」に癒やされて

ふだん、朝のNHKテレビ小説「エール」を、録画予約しておき、都合のいい時間に観ている。

 

ここからは、今週放送された内容のネタバレにもなるので、これから観る予定の方は注意してほしい。

 

さて、今日の金曜日の放送では、いよいよ、今や有名な早稲田大学の応援歌「紺碧の空」が完成する。少し歴史を遡って調べてみた。当時の野球の早慶戦は、おそらく現代以上に、両校の学生たちにとって、キャンパスの空気を左右するほどの大切な一大イベントであったようだ。

 

何でも、同じく有名な早稲田大学の校歌「都の西北」が四拍子の曲であったのに対抗すべく、慶應義塾大学では二拍子で応援歌「若き血」を作曲したそうだ。それ以降、なかなか早稲田の野球部が勝てなく、なんとかそれに対抗しようと、新しい応援歌を作ろうという流れになる。歌詞は、学内で募集し、住治男氏の作詞に決定した。問題は作曲だ。それまで早稲田大学の応援歌は、有名な先生に作曲していただいたようだが、おそらく若く新しい風を求めていたのだろう。当時は弱冠21歳、まだ無名の新進作曲家であった、古関裕而氏に曲を依頼する。曲はなかなか容易には仕上がらず、実際にもなかなかギリギリで完成し、古関氏自ら歌唱指導もしたようだ。

 

果たして、初めて「紺碧の空」が歌われた早慶戦はいかに。昭和6年の春、歴史に名高い三原選手のホーム・スチールを呼ぶなどし、早稲田大学が勝利をおさめた。そしてのちに「紺碧の空」は、第六応援歌から第一応援歌に昇格したそうだ。

 

同校の卒業生である娘が以前言っていた。「今の学生は、都の西北は一番を歌えるのがやっとで、二番や三番までちゃんと歌えるひとは少ないよ。それよりも、紺碧の空の方に思い入れの強い学生の方が多いと思う。」と。

 

肝心の早慶戦も、最終的にどちらが優勝か決定してしまうと、いったんチケットを取ったにも関わらず、観戦をドタキャンする学生もいる。娘が学生中、サークルで会計を担当したときは、数十人のドタキャンのひとから、チケット代の徴収に回るのにだいぶ骨を折ったらしい。ひとり分は決して高くはないが、集まると結構な額になる。どうも、今の学生は朝の7時から球場内に入り、試合が始まるまでスタンバイするのが億劫に思うひともいるようだ。それでも、慶應よりは応援の人数が多いという。今はさまざまな娯楽も増え、大学全体で盛り上がるわけでもないらしい。

 

この夏は、とうとう甲子園も中止となった。まだ次男が小学生の頃、大好きな日大三が必ず優勝するからと、データなどで分析し、実際に甲子園まで足を運んで一緒に観戦したのは、懐かしくも遠い思い出だ。

 

今は、世界中の人々がそれぞれのさまざまな立場で、やるせない思いをしていることだろう。

 

個々に、何かしらの自分への応援歌となるものを見つけて、少しでも心が折れないように、進んで行くしかない。

 

最後に、YouTubeで見つけた「紺碧の空」を貼り付けます。良かったら、聞いてください。

 

https://youtu.be/L4XudAUregg

 

 

「逃げたい」という感情

ひとはそもそも、どんなときに「逃げたい」という気持ちに陥るのだろうか。

 

数年前、ひとりで用事があり電車に乗ると、よくこんなことを思った。

「ああ、このまま当てもなく行けるところまで電車に乗り、どこかに行ってしまいたいなあ。」と。

 

自分の置かれた立場から、現実には逃げられるはずもないのに、ふっと普段の日常で疲れたとき、「逃避行」というイメージが湧いたものだ。

 

思えば、ひとり親になってからの長い歳月、現実的に誰かが私の負担を率先して減らしてくれたという記憶が本当に少ない。私自身はもともと、ひとから何かを頼まれると断りづらく、たいてい引き受けてしまう。そして、自分自身が辛く、明らかに誰かの助けを必要とするとき、自らSOSを発信したり、ヘルプを求めたりすることが容易にはできない。

 

こんな性格の場合、周りが自ら気づいて、極力余計な用事を私に頼まないようにするか、またはこちらが何も言わずとも、生前の夫のように自ら率先してあれこれと嫌な顔ひとつせずに助けてくれるか。そんな素晴らしい環境に恵まれていたら、ここまで私の調子も崩れることはなかったかもしれない。

 

きっと今でも、バリバリ働き、家事も完璧にこなし、日中は疲れ知らずで夜中はぐっすり熟睡できていたことだろう。

 

考えてみると、神様は乗り越えられない試練は与えないというが、なにゆえ私にこのような試練を与えたのだろうか。

 

そして、残る余生で、それをどう昇華させて行けばよいのだろうか。

 

今の私は、完全にひとりになった方が意外と人間関係によるストレスが少なくて体調もむしろ良くなるのか、あるいは逆に昔のように大人数で暮らした方がいろいろなひとと関われて楽しいのか、実際に試すでもない限り、わからない。

 

コロナで世界が変わるような状況でさえなければ、そしてパニック障害も完治していたなら、世界中にいる古い友人たちを、もしかしたら実際に会うのは最後かもしれないと思いながら、訪ね歩いてみたかった。

 

そんなささやかな夢すら、この先叶えられる日が来るのかもわからない。

 

せめていつか自分が還暦を迎える頃には、今とはまったく違う自分になっていたいと願う。

 

 

 

 

母の日

今日は、母の日だ。

 

数年前の今日、亡き夫のお墓参りをしたことがあった。捧げた花はカーネーション。思えば夫は、まるで私にとって、育て直しをしてくれた母親のような存在でもあった。そんな感謝の気持ちも込めて、あえて父親である夫に、母の日のカーネーションを供えたのであった。

 

最近、次男の部屋に置いてあったある本を読んだ。タイトルは、「少年A 矯正2500日 全記録」。草薙厚子さんの著書だ。読んでみると、胸の痛くなる思いがした。少年Aの置かれた幼少期の立場に、いくらかの共感を覚えざるを得ない描写があり、とても辛くなった。少年Aにとって、唯一祖母が自分の逃げ場になってくれていたようだ。

 

私も、父方の祖父母とは生まれたときから同居し、初孫で跡取り娘ということもあり、祖父母にはとても可愛がられて育った。紙オムツが主流となった今では普通かもしれないが、幼い頃の私は、言葉を覚えるのは早かったのに、お手洗いにきちんと行くのは遅かったそうで、3歳になるまでオムツが必要だったらしい。オムツが取れても粗相をすることはよくあって、ついにブチ切れた母が、私のお尻にお灸をすえると言い、お線香の火をつけたのを見て、慌てて祖母のもとに逃げこんだことは、今でもよく覚えている。幼い頃に味わった恐怖感というものは、肉体の痛みよりも、長期記憶につながるようだ。

 

今日は母の日ということで、義母と実母と、それぞれに贈り物をした。義母からまずお礼の電話をいただく。今年は、ももいろハートという、少し珍しいピンク色のサフィニアを贈る。「なんかとっても珍しいお花で。きれいに満開に咲いているわよ。去年もらった山あじさいもね、庭に植え替えておいたら、蕾をつけているわ。その前のあじさいも、植えた場所によって花の色が変わるのよ。」贈ったお花を一年で枯らすことなく、丁寧にお庭に植え替えてくれ、毎年のように楽しんでくれている。近所の方にも、「息子さんが亡くなって随分経つのに、毎年こうして贈り物をしてくれて、偉いわね。」と言われたと嬉しそうに話してくれる。そう言われるとこちらも嬉しくなり、やはり贈って良かったと思う。本当は、例年この時期はめまいがひどくて、ネットで注文するだけでもしんどいのだが、やはり母の日は大切だ。

 

一方、実の母の方は、お花など興味がないのか、いつぞやは贈ったお花のアレンジメントが暗い倉庫(今は壊されてないが)にしまわれていたことがあった。このひとは花より団子と思い、今年は大好物のクラブハリエのバームクーヘンにした。

 

高校時代の友人のインスタグラムを見てみると、亡くなったお母さまへのお供えに、白いバラをあしらった素敵なデコレーションケーキを手作りした写真があった。優しいお母さまだったなあ。

 

娘からは、夏物のパジャマを注文したが母の日には間に合わなくてごめんと、ラインが来た。娘の会社は、このご時世でもまったく売上が落ちていなく、相変わらず忙しいようだ。忙しい中手配をしてくれただけでもありがたいと思う。

 

ここ1か月くらいの私はといえば、子供の受験が終わったことの解放感からか、あるいは大学のオンライン授業が始まり、予想外に時間指定の食事の支度に翻弄され疲労が蓄積したのか、かなり体調が悪い。それも心身ともにだ。

 

ここまでめまいがひどいと、例年ならはるばる神戸まで出かけて鍼灸治療をするところだが、今回はそういうわけにもいかない。トラベルミンを服用するだけでは、予防にはならない。早く気圧が安定して、6月に入ればたいていは落ち着く。それまでの辛抱だが、なんともしんどい。

 

次男も少しは家事を手伝ってくれるが、受験中より忙しいのか、自分から手伝ってくれることは、浪人中よりもずっと減った。ひとり暮らしなら洗濯は自分でするのだから、もう少し動いて欲しいよなと思いながらも、休み休み家事をしている。

 

さあ、重い腰を上げて、これから夕飯の後片付けだ。

 

 

 

得点開示の結果

本日、暴風雨の中、東大より得点開示の結果が届いた。

 

息子が、自身の大学受験の集大成だといい、楽しみに待っていた結果だった。

 

開けてみると、期待通りの、いやそれ以上の出来栄えだった。

 

一次と二次を合わせた総合点の点数は、現役時より40点近くも伸びを見せた。また、合格最低点よりプラス約46点。合格者平均点よりはプラス約22点と、全体的に昨年の入試より難易度が高かったわりには、現役時よりかなり成長が見られた結果となり、本人もたいへん嬉しそうだった。

 

特に世界史で高い得点が取れたのは、通っていた予備校の敏腕講師のおかげだという。振り返ると、不満だらけの予備校生活を送るなかで、敢えて一年間残り続けた一番の理由が、世界史の先生の存在と言っても過言ではない。世界史は、現役時の模試でも好成績を収めてはいたが、なぜか入試では自己採点よりもずっと低い点数だった。息子いわく、地歴だけは独学よりも、名講師の指導を受けた方が本番の得点率アップにつながる気がするという。 

 

そして、一番好きで得意科目である数学は、昨年より11点伸ばすことができた。今年の東大文系数学は、2015年並みに難化したため、平均点もかなり下がったようだ。本人いわく、今年の数学は「さすが東大」と言わざるを得ないほどの良問だったと言う。今まで見たことのないような問題で、しっかりと受験者の思考力を問うような、予備校の模試などでは決して出ないような、よく考えられた問題だったそうだ。あの難問で6割を超えることができたのは、粘り強く考え尽くした結果なのだろう。元をたどれば、小6の夏に中学受験を決意したとき、どんなに難しくても算数の問題を解く際、まずは先生に解き方を教わらず、自分の頭で考えて考えてなんとかして解いたというあのプロセスが、学びの基本になったことは間違いないと思うのだ。

いつもいつも先生に教わってから解く癖をつけると、本番の試験では隣りに先生はいないので、初見の問題を自力で解く力が養われにくいと言う。

 

センター試験の開示結果も、自己採点とまったく同じであった。

 

これで本当に、受験そのものは終わりを告げたんだなあと感慨深い。

 

そして、今はまだ完全オンライン授業だが、もう少しで履修登録も終わる。本人が言うように、大切なのは受験の結果以上に、大学で何をやるかということ。

 

第一志望に合格しても有頂天にはならず、不合格でも絶望はせず、4年間という時間を大切に過ごそうということだろう。

 

一日も早いコロナウィルスの終息を願いつつ。

 

 

 

 

 

 

 

旧家に生まれて

思えば旧家というのは、何代くらい続いてきた家を指すのだろうか。

 

具体的にはわからないが、少なくとも桜子の家は、地元ではわりと知られた旧家のひとつであることは間違いなかった。

 

桜子の家では代々商いを営んでいた。古くは、余裕のない家にお金を貸すという、今でいう銀行の融資のような生業もしていたらしい。桜子の家ばかりではなく、当時、つまり江戸の安政の頃は、そこそこ商売で上手くいっていたものが、いくらかの利息を取ってお金を貸すということは、ごく普通に行われていた。桜子の家には、その当時の借用書のような古い文書も残されている。

 

桜子の家には、他県からも、商家の跡取り息子らが修行を積むために、若いうちから住み込みで働いていた。桜子は幼い頃から、たくさんの男の人たちが汗水たらしながら、夏の暑い中でもみんなで一緒に働く姿を当たり前のように眺めていた。その汗は、子供心に眩しく感じたものだ。

 

四、五歳くらいになると、時には家のお手伝いをすることもあった。古くて大きな倉庫のニ階から、たくさんのスリッパを下に降ろす。それだけの仕事でも、大はしゃぎだった。

 

桜子はまったく人見知りをすることもなく、たくさんの大人に可愛がられて育った。ただひとつだけ嫌だったことがある。それは、六歳になるまでずっと一人っ子であったこと。周りのみんなには兄弟がいるのに、どうして自分にはいないのだろうと思っていた。かといって、特別さみしい思いをしたわけではない。それよりも、父が何度も繰り返し言う台詞が嫌だった。

「桜子は一人っ子みたいに育ったから、わがままになってしまった。」

そのたびに桜子は思った。

「私だって好きで一人っ子をやっているわけではないのに、なんで私が悪いみたいに言われなくちゃならないのだろう。」子供ながらに、父の言い方には、理不尽さを覚えていたのだろう。

 

そしてようやく、桜子が六歳を過ぎた秋のこと。妹が産まれた。そのときはさすがに嬉しかった。そして、妹ができたことで、母の虐待が一層ひどくなるなど、そのときは予想だにしなかった。

 

桜子は、近所の同級生と遊ぶことも多かったが、ひとりでおとなしく遊ぶ時間も多かった。ひとり遊びの中で、もっとも熱中したのが、読書。とりわけ、岩波こどもの本シリーズが大のお気に入りだった。何冊もの本を、繰り返し繰り返し読んだ。そらで完璧にお話を言えるくらいに熱中した。

 

そして小学校に上がるまでには、二人の叔母もよそに嫁ぎ、曽祖母も亡くなって、祖父母、両親、妹と自分の、六人家族になった。

 

小学一年の頃には、家業も自宅でこなすには手狭になり、市内に新しくできた企業団地の一画を購入し、商店から株式会社へと商売は発展して行った。

 

(ふと、自伝めいた手記を小説風に記してみたくなりました。続きを綴るかどうかは、気分次第ということで。)

 

本日は東大の入学式の予定でした

本日は、東京大学創立記念日。例年、この日に入学式を挙行する予定になっている。

 

通常は武道館を利用することが多いが、令和になり初めてとなる入学式は、国技館で行う予定だった。

 

3月に入り、さまざまな大学で卒業式や入学式の中止や縮小、延期などを決めて行く中、東京大学の入学式はどうするか、ギリギリのタイミングまで話し合われていたようだ。

 

そしてついに、正式に中止を決めた。代わりに本日は、式典で読まれるはずであった、総長の祝辞、並びに来賓の方の祝辞などが、YouTubeで配信されている。

 

それらを拝聴してみた。直に聴いてみたかったと思うほど、内容の濃い祝辞を述べてくださっていた。

 

本来のあるべき大学の姿であると思った。自分の子がそこに入り、学べることをつくづくありがたいと感じた。

 

昨日は義父母とともに、亡き主人のお墓参りをした。そのときに、意外なことを聞いた。なんでも、夫がまだ幼い頃に、叔母さんの前でこう言ったそうだ。

「僕は、将来東大に入るよ。」

それを聞いた叔母さんが思わず笑うと、

「叔母ちゃん、なんで笑うの? 僕、本気だよ。」と答えたそうだ。

 

実際には、主人は明治大学の法学部に進学したのだが、私は彼と結婚してから、「頭のいい人って、こういう人のことを言うのだな。」と思わず感嘆したものだ。とにかく、やったことがないことでもなんでも、ちょっと頭で考えたり調べたりしただけで、実に器用にこなしてしまうのだ。新婚当初、入居したアパートには、カメラ付きインターホンや、お風呂の自動温度調節器などはついていなかった。それでは不便だと主人が判断し、自ら便利なものに付け替えてしまった。私が、「大家さんに断らなくていいの?」と聞くと、「便利になる分には、次に入るひとも困らないだろ。」と言う。結果的に、特に退去の際、大家さんや不動産屋さんに文句を言われることはなかった。

 

今になってみれば思う。人一倍、勉強熱心で負けず嫌いでもあった夫は、環境さえ整っていたら、本当に東大を目指していたかもしれないと。

 

そして、間接的だが、夫の幼い頃抱いた夢を、自分の息子が遠い将来実現してくれたとも言える。

 

4月6日から予定通り、東大ではオンライン授業が始まった。人気のある授業では、なんと受講者が千人に達することもある。それ以上は受講できないので、先生が録画しておき、あとから他の人も見ることができる場合もある。正式な履修登録はまだ先なので、それまでにさまざまな授業を聴くことができるようだ。

 

中には、世界的に有名な経済学者の講義もあり、自分の講義よりあえてそちらを薦める教授もいたりする。なんと謙虚な姿勢なのかと思う。

 

息子は、文系でも受けられる難しめの数学の授業など、とても楽しみなようだ。

 

直接集まれない代わりに、クラスでオンラインの顔合わせなどもある。

 

リアルに仲良くなるには、実際に対面講義やサークル活動が始まってからになるだろうが、先輩が新入生の面倒をみる風習や、クラス単位のまとまりといった雰囲気があるため、あまり孤立することはないような体制になっているのが良いと感じた。

 

マンモス大学で、クラスがない大学に入ると、自ら積極的に友達作りをしていかないと、気づいたらひとりぼっちということが実際にあるようだ。それはそれで、コミニュケーション能力を高める新たな試練や機会があると思えば良いかもしれない。

 

本来は次男は下宿の予定でいたが、引っ越しの前に非常事態に突入しつつあったため、オンライン授業の間は自宅に残ることになった。大学側もなるべく外出はしないようにと言っているが、ひとり暮らしをすると外出をせざるを得なくなる。都内の感染拡大状況が改善されない限りは、地元に残っていた方が良さそうだ。

 

てっきり今頃はひとり暮らしをしているかと思ったが、予想外に、もう少し家族で暮らせることになった。

 

これも落ち着くまでの間のこと。

 

貴重な機会と捉えて、毎日を大事に過ごそうと思う。時々起こる、パニック発作やめまいとは、うまく付き合いながら。