終わりよければすべてよし

ひとり親卒業日記

人はどこまで進めば満足できるんだろう

思うに人という生きものは、果たしてどこまで進めば、もう十分だと心から満足できるものなんだろう。

 

私が大学受験生のとき。父が言った。「とにかく浪人は絶対にだめだからな。必ず現役で合格したところに進学するんだぞ。」

浪人すれば、予備校などに通い、最低でもざっと100万円はかかる。その頃の私はこう考えていた。確かに、浪人をしたからと言って必ずしも難関大学に受かる保証はない。しかし、現役でも合格できるようなところに一浪して入るのは絶対に嫌だ。そもそも自分が大学に入る目的は何なのか? まずは何と言っても、大好きな英語を駆使できるような力を身につけたい。高校生の頃から英語圏の大学に長期留学するのが夢だった。単なる語学留学ではなく、あくまで現地の大学に交換留学生として通学することだ。その夢を叶えるためには、あらゆる努力をしてみよう、と意気揚々と受験勉強に励んでいた。若かったからなのか。当時の自分は、本当に怖いもの知らずで、はるかにポジティブ思考の人間だった。

 

実際、第一希望ではないものの、合格できた大学に進み、30名の留学希望者の中から選ばれた7名に入り、その中でも唯一の奨学生にも選出された。

 

帰国後は、英語を生かす仕事に就きたいと望み、半導体関連のメーカーに決める。配属先によってはまったく英語は使わないが、運良く海外営業部に配属され、初日から英語で電話を受け、マニュアルの翻訳を任されたりした。

 

まずは3年、バリバリと働きたい。その間はたとえ交際相手がいても結婚なんてすぐには考えられなかった。当時はほとんどの女性が寿退社をし、結婚してもなお正社員を続けるのが当たり前という時代ではなかった。

 

たとえ一度結婚に失敗しようが、次こそは絶対に幸せな結婚をする。しかも、相手よりも先に。

 

当時の私は、いかなる危機的状況におかれようと、前向きだった。

 

願望通り、5年近く勤めた会社を退職した翌月にはお見合いをし、亡き主人と出会っている。そこから、主人が息を引き取るまでの14年以上の歳月、自分ほど幸せだった妻はいなかったのではなかろうか? などとさえ思えるほど幸せだった。

 

今回、くも膜下出血の手術をして、私の意識が戻るのを待つ間、娘は思ったそうだ。果たして、お母さんにとっては、ここで意識が戻るのと、お父さんのそばに旅立つのと、いったいどちらが幸せなんだろうと。

 

それを聞いて私は答えた。

「お母さん、事あるごとに後追い願望に苛まれてきたけど、今回思ったよ。いつかは必ずお父さんに会いたいけれど、今は少なくとも3人の子どもたちみんなともっともっと一緒にいたい。しばらく先まで生きていたい。」と。

 

それを聞いた娘も、私がそう思ってくれて嬉しいと。

 

人間は、何を手にすれば幸せなんだろう。どんな境遇でも負けない強靭な精神力か。はたまた、自分のたいへんなときに寄り添おうとしてくれる家族や仲間の存在か。自分では何もした覚えがないうちに勝手に身体から余計なものを吹き飛ばして身体を正常に戻そうとする自然治癒力か。

 

今、次男がフライパンでも作れる唐揚げを準備している。

 

おそらく私は幸せなんだろう。

たとえ、身体や脳はまだまだ回復途上にあるとしても、ときどき悩まされるさまざまな不調が起こるとしても。

 

「足るを知る」

昔、死別の掲示板が存在した頃、書いた言葉だ。

 

お父さん、入院中に一度だけ、こんな厳しい状態に陥っても私って助かるんだね。まだまだすぐには会えないんだね。そうふと思い、泣いたっけね。

 

Man is mortal.

 

どんなひともいつかは天に召されるのだ。焦る必要などどこにもない。

 

いや、今回のように、いつなんどき突然、ということが起きるかわからないのだ。

 

ただただ、淡々と一日一日を過ごして行こう。

 

次男の所属学科決定

東京大学というところは、推薦入学を除いて、入学時点では将来どの学部に進学するかは決まっていない。先日、次男は無事に、最初の第一希望通り経済学部に内定した。経済学部には、経済学科、経営学科、金融学科の三つがある。東大の場合、それぞれ必修科目が異なるだけで、好きな科目を履修できるから学科間の垣根は低い。そして、先日ようやく息子の所属する学科が決まった。それは、金融学科だ。

 

昨日たまたま、夕飯のあとに、受験生時代よく世界史の話を私に聞かせてくれたように、マクロ経済学について興味深い話をしてくれた。私にとって、マクロ経済学というと、一番に「再履修」という言葉が思い浮かぶ。長男の大学時代、何度目にした文字か。次男が笑って言う。お母さん、マクロと再履修は何の関係もないから。

 

息子が言うには、教授にもよると思うが、すべての先生が皆、話し方が上手なわけではないそうだ。それはそうだろう。教師たるもの、特別話し方の訓練を受けるわけでもなく、わかりやすく面白い話し方が得意な人もいれば、滑舌が悪かったり、話の途中で止まってしまいがちな人もいるだろう。息子は言う。僕、ひとの話を聞くの、苦手なんだよね。

 

そうなのか。それで居間にあるお財布を忘れずにバッグに入れてから出かけるように言っても忘れてしまう。たまたまズボンのポケットに入れたままにした500円玉でギリギリ駅の改札を通れたり、高校時代などは先生が貸すどころか、校内で失くしたまま見つからないお財布の代わりと言い、千円をくださったことまであったっけ。

 

話がずいぶん逸れたが、要するに、マクロ経済学の教科書があまりに素晴らしくて講義を聞くより、よほどわかりやすいそうだ。確か、グレゴリー・マンキューという経済学者の著書だったと思う。かなり分厚い本なのだが、あまりの面白さに熱心に読みふけり、昨晩はその一節を私に聞かせてくれた。

 

まずは「ハイパーインフレーション」。

私には初めて聞く言葉だった。強いて思い出すなら、大正生まれの私の大叔父は、今なおブラジルで健在だ。昔、私の祖父が健在だった頃、ブラジルはインフレがひどいからと、時々お金を弟に送っていた。

 

しかし、息子から聞いた話にはびっくりした。一番ひどい例はジンバブエ。一通り話を聞いたあと、YouTubeで関連動画を探してみた。日本人の旅行者がジンバブエに行き、現地の人と仲良くなる。何より、現地の人が明るいのに驚いた。日本人は民族的に暗いと言われるが、日本国内であのようなハイパーインフレが起きたなら、どうなるのか想像するだけでも恐ろしい。ところが、その現地の人は笑いながら、今はもう使えないかつてのジンバブエドルの紙幣を大量に日本人旅行者に見せる。そしてそれをすべて、US$10で旅行者に売るのだ。あとでメルカリでジンバブエドル紙幣を探すと、今の交換レートでは1円にも満たないものが、1万円以上で実際に売られているから驚きだ。現地のひとも銀行で交換するより、興味ある旅人に販売した方が得なわけだ。

 

また、ベネゼエラでは、今なおハイパーインフレの真っ只中。

 

今日10億の価値があるものが、翌日には1円になるなんて、信じがたい状況だ。(例え話に書いただけで実際にはもっと恐ろしい。関心ある方はネットなどでお調べください。) 銀行が財政危機に応じて、紙幣を増刷し続けるということが、どれだけ恐ろしいことか。

 

他にも敗戦後のドイツの状況や、数年前のギリシャの状況など、いろいろと熱心に説明してくれた。

 

改めて、やはり息子は自学に向いているタイプだなと思ったが、来年度こそは本郷キャンパスに通い対面での授業が増えることを願う。また、今学期さまざまな専門科目が入ってきて、とにかく進捗スピードが速いと。やはりこの大学は、それにまともについて行ける力がないと、きついだろうなとつくづく感じた。

 

私自身はと言えば、どうも最近、病後うつ気味だなとわかった。退院直後より明らかに少しずつ、身体は回復している。いや、実際のところ、軽症の患者でも1〜2か月は入院するそうだから、重症であったにもかかわらず、わずか2週間で退院し、その後リハビリ専門病院にも入院の必要がないのである。視界も完全に良いとは言えないが、ものが二重に見えることはまったくなくなった。本来なら喜ぶべきところだ。

 

それでも、怖いのだ。時折不安になるのだ。いつまた、再破裂、または全然違う病気にかかる恐れがあるかとか、必要以上に心配になるのだ。

 

病は気から、という言葉があるが、本当にその通りだと思う。結局のところ、今回の病気の発症の一番の原因は、やはりストレスだと感じている。高血圧や肥満のひとが皆、同じ病気になるとは限らない。むしろ、この病気は、低血圧のひと、または痩せ型で高血圧のひとがかかる方が危険らしい。やはり、血圧でも体重でも、標準の数値が一番、健康でいられそうだ。

 

話が長くなってしまった。そろそろ、台所を片付けてお昼ごはんに、鈴波の粕漬けを焼こう。このお魚、なんとオンラインで注文したら、業者のミスにより、同じものが2つ届いてしまった。お代は結構ですと言われたため、ありがたくいただいている。高級だがやはり美味しいお魚たち。頻繁にいただきすぎて、もう当分はいいかなあ。

不幸中の幸いとはいえ、弱音も吐きたい

先日、術後1か月健診に病院に行ってきた。以前よりは視界も良好となったため、周りの景色も見えた。そこで初めて他の患者さんのご様子を見て驚いた。

 

例えば、まだ私より若そうに見える女性の方が杖をつきながら歩いている。しかし、それは私の母が歳をとってから杖を使い歩くのとは全然違う。今にも倒れそうで車椅子の方がいいんじゃないかと思うほどだ。また、車椅子の患者さんもいたが椅子からは自分で立ち上がるのは難しそうだ。そして、別室で話をしている患者さんの声を聞いて驚いた。それまではろれつが回らない話し方というのを直に聞いたことがなく、どんな話し方か、ピンとは来なかった。それが、正直、何を話しているのかまったくわからないのだ。一歩違えば、自分もそうなってもおかしくはなかった。改めて、この病気の恐ろしさを感じずにはいられなかった。

 

MRIの結果も特に問題なし。どうも私は、すでに初期段階で脳梗塞も発症していたようで、画像を見せながら、これは起こした経験の証拠として一生画像には残るけど、今起こしているという意味ではないから、安心してくださいね、と先生に言われる。

 

脳梗塞さえ起こし、はじめの数日は左足などに麻痺もあったものの、発症してわずか1週間以内に、ほとんどの血がきれいに洗い流されてしまったこと。そのおかげで麻痺もすぐになくなったし、脳血管攣縮という次なる非常事態も防ぐことができた。また、ほとんど頭痛もなかったのも、圧がかかることがなかったからだろう。

 

本当にありがたいことだし、執刀医はじめ、あらゆるひとに感謝しなければならない。

 

その一方で、こうも思う。私の人生って。尊敬できる主人に巡り会えたのは一番の奇跡だけれど、結婚生活わずか13年と少しで、突然ひとり親になり、必死にまだ小学生の子供たちを育ててきた。娘の高校受験や大学受験で神経をすり減らし、長男が実質高校中退になるのを、まるで学歴ロンダリングするかのように、我が母校でもある大学に進学させ、次男はゆる〜い中学受験をして、不眠の中早朝からお弁当を用意し、予想を大きく外れて浪人。浪人生のサポートは想像以上にきつく、腫れ物に触るような雰囲気だった。応援した甲斐もあり日本一の大学に合格するも、コロナ禍でほとんどオンライン。それでも、自分を含め家族みんなが健康でありさえすれば良かった。娘の結婚式も来春に控え、今頃はレンタルする留め袖を選びに行く予定のはずだった。

 

ああ、何故、この時期にこんな大病に。

 

そろそろ眠る時間だ。

 

皆さま、おやすみなさい。

 

テレビドラマ「二月の勝者」スタート

昨年、ふとしたきっかけで読み始めた「二月の勝者」という中学受験を描いた漫画。とにかく面白いと、ハマってしまい最新刊まで読んだ。

 

それが、私の好きな役者さんが主演で、先日からテレビドラマ化されてスタートした。くも膜下出血の唯一の後遺症として、物が二重に見えるという症状があった私。それが、最近は気がついたら朝から晩まで、わりと普通に見えるようになってきた。お薬としては、ビタミンを補給する錠剤くらいで、特別なリハビリ方法はない。先生も最低3か月はかかるように言われていたが、まだ術後1か月と少ししか経過してはいない。先日の術後1か月健診では、MRIの結果も問題はなかった。あとは、術後3か月健診だ。最近は血圧も、降圧薬のおかげでだいぶ下がり安定しつつある。脳血管疾患にかかったひとは、普通の人の正常血圧より、さらに低い血圧値が最終目標だ。少しずつ、いろいろな工夫をしながら頑張りたいと思う。

 

話をもとに戻して、先程の「二月の勝者」。作者はかなり綿密な取材をもとに構成したと聞く。以前にもブログに書いたと思うが、我が家で中学受験を経験したのは、唯一次男だけだ。それも、本格的な中学受験とはまったく違う。もしも、我が家が首都圏にあり、クラスの大半が中学受験を志しているような環境にあれば、話はまったく違っていたかもしれない。

 

ただ、娘が小6の冬に最愛の父親と死別するまでは、我が家はほとんど毎週末のように、どこかにみんなでお出かけをしていた。もし娘が小4あたりから塾に通い出していたら、最後の数年のパパとの大切な思い出がなくなってしまったろうから、普通に公立中学からの高校受験というルートで良かったと思う。

 

また、次男も小3から小5までは野球少年団に入って、かなりハードな練習を頑張っていたから、振り返るとあれはあれで貴重な時間だったかなと思う。もし、次男が小4から3年間かけて大手の中学受験専門塾に通い、運よく難関校に合格できたとしても、果たしてその学校が本人に合っていたかなんてわからないし、難関校出身なら全員東大に合格するというわけではない。また、果たして東大を目指したかどうかもわからない。

 

今現在、息子は経済学部の中のどの学科に決めるかを検討中だ。経済学科、経営学科、金融学科の垣根は低く、決めるのは少し難しそうだ。今息子が興味を抱いているのは、統計学とプログラミングだ。昨日も一緒に「二月の勝者」を見ているとき、黒木先生がサッカーボールが床に落ちる可能性の話をしていたとき、「ああ、あれは高校数学でやった等比数列の話だな、、、」などとつぶやいていた。東大の何と言っても素晴らしいと思えるのは、世界的に有名な一流の経済学者の先生の執筆した本を教科書に、直にそれらの教授の授業を聴けることだろう。一時限が105分という長過ぎる時間はたいへんだが、今学期はようやく専門分野の科目もたくさんあり、一層勉強のモチベーションアップに繋がっているようだ。また、少し早いかとも思うが、就職活動にも関心を持ち始めた。先日、息子に聞かれたのが、外銀てどんなところ? 外資系銀行といえば、私自身の就活において、お恥ずかしい話くらいしかない。私の所属していた英語学科からは、毎年一定数は、外銀や外資系の証券会社に就職していた。私はとにかく英語を使う仕事がしたいと思い、業界研究などは一切していなかった。なんとなく受けた、オーストリア銀行。ひと通り中を案内され、面接が始まった。

「まず、もし当行に入社したら、どんな仕事をしたいですか?」

「はい、先程案内されましたディーラールーム。ものすごい活気を感じました。私もぜひそんなところで働きたいと思いました。」 

「はあ、活気ねえ、、、、。」

 

当時の私は、ディーラーの仕事など何もわかっていなかった。また、事前に私の家のことまで調べられていたようだ。将来は、サラリーマンをやめて、実家の商売を継がなくてはならないですよね?などと聞かれた時は正直驚いた。当然ながら、その銀行からは不採用だった。

 

参考までに、もし外資系銀行にお詳しい方がいらっしゃいましたら、コメント欄にぜひ情報をお知らせください。よろしくお願いします。

 

もちろん、息子はこれから、業界地図や四季報などを見て、さまざまな職種を研究してみるつもりのようだ。

 

私自身の体調といえば、まだまだ身体が疲れやすく無理はできないが、最近の気圧変動には悩まされている。普通は10月に入れば、めまい等も落ち着くのだが、服用している降圧薬の副作用に、めまい、ふらつき、立ちくらみとあるのだから仕方ない。

 

しかし、「一病息災」という言葉もあるように、これからはきちんと定期健診もこなしつつ、自分の身体を自分自身で大切に守ってあげようと思う。

 

きっと私は、55歳で一度は死にかけ、また新たに生まれ変わったのだと、信じて。

 

大好きなパパへ

パパ、ごめんね、私には何の自覚もないんだけれどね。

 

今回はやっぱり、パパが全力で私の命を助けてくれたんだね。自分が見ることができなかった孫の顔を代わりにぜひ見てほしいと。これから先、楽しいことがいっぱい待っているからと。

 

あの日、もし倒れたのが病院でなかったら。搬送先の脳神経外科病院は、あとひとり、つまり私で満床だったと。かなり難しい手術だったから、あの名医に担当してもらえなかったら。心肺停止から蘇生できなかったら。手術前に再出血していたら。手術後にあんなに速く血が洗い流されていなかったら。術後に脳血管攣縮を起こしていたら。脳梗塞まで起こしていたら。言語障害や半身麻痺になっていたら。

 

みんなが言うよ。本当に奇跡だと。

 

明日はね。いよいよ、術後1か月健診。MRIも撮ってくるね。きっといい結果になると信じてる。

 

それからね。もうひとつ心配事があるの。ハルがね。モデルナワクチン2回目の接種の翌日にね、終日40℃前後の熱を出してね。解熱剤を使うも、上がったり下がったりの繰り返しで。それで今日も38度台の熱が出たから、近くの発熱外来に行かせたの。すると、副反応の疲れから、尿路感染症を起こしていると。無理をすると入院になるから、とにかく安静をと言われたよう。大学時代も2度も腎盂腎炎にかかっているから、とても心配。こんなときに看病にも行けなくて、と電話口で泣いてしまったら、ハルも泣いてた。旦那さんはリモートで自宅にはいるけど、お仕事があるからね。お昼ごはんにはレトルトのお粥を食べたって。

 

パパはさ。私がインフルエンザなどの病気になったら、会社を休んで一日看病してくれたね。美味しいおじやや、温かい煮込みうどんを作ってくれて。

 

でもね。今日フユに言われたよ。そんなパパと同じことができる人を探していたら、一生結婚なんてできないよ、とね。もうお姉ちゃんは結婚して、旦那さんと暮らしているんだから、お母さんがそこまで心配することはないよ。まだ、お母さんの身体は外出もままならないほど、疲れやすいんだから。だってまだあのたいへんな手術から1か月も経っていないんだよ。

 

そう、そうだよね。

 

明日の健診はナツに送迎してもらうけど、なんと母まで付き添うみたい。ナツが産まれた病院にも、一度も見舞いには来なかった人がね。ちょっと調子狂っちゃうよ。一応、私のお母さんだったんだね。

 

パパ、あなたに助けてもらった命、残りの人生。大切に使います。

 

これからもずっと、お守りください!!

破裂当日の病状

ワクチン接種の予定で出向いた地元の総合病院での検査で、すぐにくも膜下出血と判明した私。その病院には治療ができる外科はないため、すぐに市内の脳神経外科専門病院へと救急搬送される。

 

そこでまず検査をしてわかったこと。それは、脳にできた静脈瘤の位置がたいへん難しい場所にあること。また、通常発見当時、4〜5mmのサイズであることが多いなか、私の場合はなんと、9mmもあったこと。つまり、サイズが大きいほど、出血量が多く、それだけ命の危険が大きいということだ。脳で出血した場合、人間の身体は危険を感じてか自力で止血しようとする。運ばれた病院で、血液検査をしようとするも、すぐに血が固まってしまうようだ。そしていったん止血したものが、再出血する場合、今度こそ亡くなる危険が増すのだ。だから、止血されてから24時間以内に、なんらかの処置をする手術をしなくてはならない。

 

私の場合、場所を特定するのに時間がかかり、検査に2時間を要したようだ。そして、グレード1〜5のうち4と診断され、ぎりぎり手術が可能な状態だった。開頭手術といって、頭蓋骨を開ける方法もあるが、私はすでにカテーテルが足の付け根から入っていたため、頭は切らずにカテーテル手術を行い、動脈瘤の入口にコイルをぐるぐる巻き付けて再出血を防いだ。コイルの状態は、今後定期的に診てもらう。グレード5は昏睡状態を指すが、私は意識や記憶こそないものの、光を目に当て反射があったり、片足だけバタバタ動かしていたので、昏睡はしていなかった。

 

手術後、意識を取り戻してから、次男の名前を何回も何回も叫んでいたらしい。おそらく、最後に誰が付き添いしてくれていたのか、潜在記憶にあったのだろう。また、はじめに「ここはどこですか?」と看護師さんに聞かれると、ワクチン接種予定であった地元の病院の名前を答えたそうだ。確かにワクチンのために、足を運んだ記憶まではしっかりあったようだ。

 

改めて考えると、本当に怖いことだと思う。自分の知らないうちにいつの間にかあの世に旅立ってしまったかもしれないのだ。

 

私はかつて、結婚する前から夫が短命であることを言い当てた占い師に会ったことがある。主人亡きあと、その人に再び見てもらいに行った。そして、こう質問した。

「我が家は代々長寿の家系なんですが、私も同じように長生きなんでしょうか?」

すると、私の横顔を光を当ててじっくり見て、「あなたは間違いなく長生きです。」と答えた。

「大病にかかる可能性はありますか?」

「うーん、今のところはなんとも言えないけど、万が一かかったとしても、ご主人が全力で助けようとしますから、必ず助かります。生きている人間の力より、亡くなった霊の力の方が強いから。」

 

そんなことを言われた記憶がある。そのときの私は、早く夫のそばに行きたくて、がっかりして帰ったものだ。

 

今回のことを一番切羽詰まった立場でひとりで対応した次男。息子は言った。「お母さんが助かって本当に良かったよ。僕、お母さんがいなくなってしまったら、自分が現世にいる意味を見い出せなくなる。」

 

私はまだまだ生きなくてはならない。

 

両親を看取り、義両親も看取り、3人の子どもたちを全員社会人にさせ、3人の結婚式にも参列し、それぞれの孫の顔を見るまでは、少なくともまだまだやることがたくさんある。

 

くも膜下出血は、高血圧の方がリスクは高いが、低血圧の人でも発症するという。原因を調べて一番思い当たるのは、やはり、ストレスだ。最愛の人を亡くしてから、14年近く。ひとりで小学生の子3人をみな、成人するまで育てるのに、どれほどの精神的ストレスを抱え続けてきたのだろう。特に発症前の最後の一年。楽になれるはずが、初めての孤独によるストレスがこれほど大きいものだったとは。

 

こんな大病にかかると、この先私は、たったひとりで暮らすことはないだろう。子どもたち皆が結婚しても、例えば敷地内隣居とか、二世帯住宅とか、とにかく夜中でも頼れる場所に誰かしらいてもらわないと困る。

 

意識がはっきりした直後、その気持ちを次男に話したら、「大丈夫だよ。誰もお母さんをひとりにしたりはしないよ。安心して。」そう言ってくれた。

 

コロナ禍前なら、ひとりになったら、プチ留学かシニア留学、などと呑気に考え、10年パスポートまで更新した私。

 

今はただ、病状が悪化しないように気をつけるしかない。また、唯一の障害である「物が二重に見える」という視神経の異常。通常は自然に3〜6か月経過すれば治るという。なんとか、来春の娘の挙式までには治ってほしい。

 

手術翌々日

今の自分がすべてをはっきりとは思い出せないが、手術翌々日になると、次第に意識を取り戻し始める。

 

まず、看護師さんに今日は何日か聞かれると、正確な日付を答えられたそうだ。

 

そして、しきりにお水を求める。すると、この病気は誤嚥することも多いらしく、中でもお水は一番危ないと言われ、当分は与えられないという。代わりに、病院で支給されるアイソトニックゼリーなら咀嚼の練習になると言われ、飲ませてもらえる。正直、何の味もしないため、あまり美味しいとは思えない。変な言い方だが、自分ではお水をきちんと飲み込める自信があった。なので、しきりにお水が飲みたいと欲していたようだ。

 

そして、おそらく手術して4日目以降から、ようやくお水も可になり、病院食も提供されるようになる。

 

初めて飲んだ冷たいお水のなんと美味しいこと。あの味は生涯忘れないだろう。

そういえば、食事が許可される前に、アイスなら食べて良いと言われる。それも普通のカップアイスではなく、クーリッシュのような、チューチュー吸えるタイプ。それを毎日のように摂っていたら、あっと言う間に血糖値が上がってしまい、食事の代わりにアイスが禁止になる。

 

あとで看護師さんに、普通は目が覚めたあと、頭痛がひどいと訴える患者さんが多いんですよ。まだ手術して間もない時期にアイスを食べるひと、初めて見ました。そう、不思議なことにたいへんありがたい話だが、私はもともとめったに頭痛は起きない方だったし、動脈瘤破裂前も、そして意識を取り戻したあとも、かなり頭痛は軽い方のようだ。女性で、お産の痛みの方が辛いと言うひとも、初めて見ましたとリハビリの先生にも驚かれる。普通は、バットで頭を殴られたような痛み、と表現するらしい。そんなことをされたら、死んでしまうではないか。

 

手術1週間後にCTを撮る。すると、興奮ぎみに執刀医の女医さんがやってくる。

「脳内で出血された血液がほとんど綺麗に洗い流されています。これほどのスピードで綺麗になる例は初めてです。1か月経っても、ここまで行かない人もいるんですよ。素晴らしいです。期待してますよ!」

 

その時点での私は、なんのことかよくわからなかった。