終わりよければすべてよし

ひとり親卒業日記

もうひとつの結婚記念日

あれは、忘れたくても決して忘れることはない、今から29年前の出来事だ。

 

「花嫁さん、もっと笑ってください。」

カメラマンが言う。

「僕と結婚するのが嬉しくないの?」

当時、私の横にいた人が言う。

笑顔というのはきっと、心の底から自然と湧き出るものだ。どんなに作り笑いをしようと、プロのカメラマンにはわかってしまうものなのかもしれない。

 

あの日、私はいったいどんな覚悟を持って式に臨んだのか。思うに誰しも、これからチャペルで永遠の誓いをしようとするときに、「きっといつかは、離婚するだろうな。」などとは夢にも思わずに式に出るはずだ。もちろん、自分もそうだった。心のどこかで、何もかも白紙にできたら。どんなに本音ではそう叫んでいても、なかなか結婚式をドタキャンできる勇気のある人ばかりではないだろう。

 

今、振り返ると、すぐに赤ちゃんを望むことだけは否定した。それは相手の心を傷つけたけれど、やはりそれだけは死守して本当に良かったと思う。私の性格上、子供を抱えての離婚は決してできなかったろうと思うのだ。

 

当時の私は、離婚がまるで犯罪かのような感覚でいて、こっそり「バツイチの女たち」みたいなタイトルの本を数冊買いながらも、実際に決心することは容易にできずにいた。あの頃は、毎日相方と喧嘩をし、日中会社にフルタイムで出勤する時間だけが、唯一オアシスのようだった。涙で目を腫らし、午前中半日有給休暇を取りながら、会社近くのカフェで、一生懸命泣き止むのに時間を潰した日さえあった。

 

のちに知ったが、家庭で支配や虐待を受けて育った人は、成人して異性と交際したときに、相手がおかしな行動や言動をしても、おかしいことに気づかなかったり、あるいは気づいたとしてもひたすら我慢してしまう傾向にあるという。今振り返ると、まさに自分がそうだったと思う。

「これからの自分の人生の使命は、いかに自分の母親を幸せにしてあげられるか。これに尽きるから、そのことはあなたもよく覚えておいて。」

50代後半に夫をがんで亡くした姑とその息子は、まるで一卵性親子のような絆で結ばれていたのだ。

果たして、3人での暮らしは惨憺たるものであった。わずか8か月の同居だったが、私には限界を超える長い長い年月に思えた。

 

これらの経験は、お見合いで知り合った亡き主人はもちろん知っている。だが、子供たちには一生秘密にするつもりでいた。それは、前の相方に最後まで入籍をしてもらえなかったからだ。

 

しかし、ひょんなきっかけから、娘に話し、次男にも話し、最後は長男にも伝えた。子供たちの反応はそれぞれだったが、さすが今どきの子というべきか、こちらが予想したほど、驚くような反応はなかった。唯一、次男は言った。

「パパがその事実を承知の上でお母さんと結婚したのがすごいよ。」

 

そう、夫も夫の両親も、普通に受け入れてくれた。念のためにと、初顔合わせのときに父が、

「一度失敗してますが。」と言う。

「それについては、まったく気にしてませんから。」

即答したのだ。夫は。やはり、正直嬉しかったし、本当にありがたかった。

 

そのとき私は思った。いや、逆の立場だったら、こんなふうにすっきりと割り切れるだろうか。まだ自分は若く、結婚に困ってもいない年齢なのに、と。

 

ひとを、過去の経歴などで判断しない。

 

本当はまっとうなことであるが、なかなか若いうちから、そのように考えるのも難しいことだろう。いかに、ご両親が温かくまっすぐに、三人の子供たちを育ててきたかに尽きると思う。

 

もうすぐ母の日だ。

 

今年は白のアジサイを義母にプレゼントする。心から喜んでくださることに、改めてありがたいと、私の方こそ感謝の気持ちでいっぱいだ。夫のような素晴らしい人を、産み育ててくれてありがとう!!